1945年8月2日未明富山市は、米軍のB29爆撃機174機による空襲を受け、推定3,000人が死亡、約8,000人が負傷した。
米軍機は、1日夜午後10時頃富山上空に現れ、爆撃を行わずにそのまま長岡へむかい「長岡空襲」が行われた。富山の人々が安心して寝入った2日午前零時頃、B29は再び富山上空に現れた。まず、戦闘機が照明弾を投下し、続いて五福や桜谷地区という市街地周辺部に焼夷弾を投下。火の輪で市街地を囲み、市民の逃げ場をなくしてから、中心部に焼夷弾と小型爆弾を2時間にわたって投下したという。当時の市街地の99.5%が消失した。地方都市への空襲としては、もっとも被害が大きかったという。
人々は、爆撃と火災、熱風に追われて神通川の河原に逃れた。そこで、また爆弾の直撃を受けて亡くなった人も多かった。死体が川に流され、富山湾に出て、当時県西部の氷見市の浜にも多くが流れ着いたという。中には、幼い姉と弟が手を縛りつけあった死体や、母親が赤ん坊とともに流れ着いた死体など、地元の方々の涙を誘ったという。氷見の松代浜には、住民の手で富山空襲被害者の慰霊碑が建てられ、今も大事にまもられているという。
富山市民は、1978年から毎年8月1日に、「献花平和行進」を歩いてきた。主催は最初「富山県民連合準備会」で、事務局は県青年団協議会。その後主催団体の変遷があったが、今年も行進は原水爆禁止富山県協議会のよびかけ、富山大空襲を語り継ぐ会の協賛で行われた。
「語り継ぐ会」は、富山市が「富山空襲記念館」を建設することなど、空襲を記念し語り継ぐ事業を行うよう、毎年申し入れている。
私は、新潟県長岡市で生まれ育った。自宅は空襲を受けなかったけれど、母は空襲の体験を私に繰り返し語った。私が卒業した高校の先生たちも、長岡空襲を語り継ぐ運動に熱心だった。その思いをしっかり受け継いでいきたいと思う。